ありがとうございます。私たちは人として生まれ、そして有り難い仏さまの御教えに御出会い出来た喜びから「ありがとうございます。」こうご挨拶させていただいております。
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ご利益体験談

佛立信仰をされているご信者は様々なご利益をいただかれています。人間関係が上手くいく。病気や怪我が治る。希望校に合格する。商売が繁盛する。その他様々なカタチで仏様のご加護をいただかれて、信仰の喜びを感じ、佛立信仰に確固たる確信を得、日々の信行に励まれています。

佛立開導日扇聖人の御教歌に「現証の利益で信を起させて未来を救ふ祖師の御本意」というお歌があります。このお歌は、日々佛立信仰に励みご利益をいただいて、信仰心を高め仏教の最終目的である成仏に導かれる、み仏の御慈悲をお読みになったみ教え歌です。

ここに紹介させていただくご利益体験談は、廣宣寺のご信者が実際にいただかれたご利益体験談です。


■1月のご利益体験談

「25年の増益寿命 元気に御奉公の毎日」

廣宣寺所属信徒:久野悦子
廣宣寺報 昭和62年10月号 掲載分

私は生まれたときから体が弱くそのためよく病気をいたしました。そんな私を母は大変心配いたしまして、小学校の3年生の頃、大阪の一心寺というところで、私の将来を墨色判断で見てもらったそうです。その時、「貴方の子供は四十才までの命です」と言われました。ですから私も小さな時から「自分は四十までしか生きられない」と思っていました。

このご信心には、父が昭和十年に入信いたしましたが、私はそのころは、事情があって、田舎の祖母に育てられておりました。でも、昭和十八年、私が十八才になった時、神戸の親元に帰るなり、私は腹膜炎を起こしました。市民病院で診てもらったところ、入院しなければならないことになりました。病院から帰る道すがら、父がこう言いました。「おまえは今決心しなければならないときだ。一生この薬の世話になって生きて行くか、それとも、御宝前におすがりして、御利益を頂くかの二つに一つだ」。そう言われまして、私はその時から自分は生涯、御宝前におすがりして行こうと決心し、薬を道端に捨てて帰りました。

その日から毎日お線香十本のお看経を致しました。始めは一週間の予定でしたが、四日ぐらい経って、「もう大丈夫だろう」と、父が言いますので病院へ行きました。診ていただくと、「確か、前に来たときは腹膜炎だったはずだが、今は何ともないよ」と、お医者さんが不思議そうに言われました。こうして十八才の時、私は当病平癒の御利益を得て入信いたしました。

その後は、おはからいをいただいたとはいえ、元来の病弱の為、ほかの人のように外へ勤めには行けませんでしたので、御講参詣やお寺参詣に励みました。夏の暑い御講席で、日淳上人の後ろ、あるいは横から、うちわで扇がせていただいたことを今でも覚えています。

結婚いたしまして、主人の実家に行きました。そこは広島の大崎島という七里四方ほどの瀬戸内海に浮かぶ島でした。私は結婚の時、本門仏立宗の信心を続けさせていただくことを条件にしておりました。でも、実家ということで遠慮がありましたので、懐中御本尊をお持ちしておりました。

やがて、長男が生まれました。でも、丁度生後七十五日目に発熱しまして、医者の誤診もあって肺炎を起こしました。そのうちお乳も飲まなくなりましたので、この子は死んでしまうのかもしれないと思いました。そこで、御宝前に「なるべく早く神戸に帰って、御戒壇を建立し、お持ちさせていただきますので、どうかこの子を助けてやって下さい。助けていただけるのなら一週間以内に助けてやって下さい。もしだめなら、早く楽にしてやってください。」と一生懸命ご祈願しました。すると3日目に長男がお乳を飲みだしましたので、やっぱり御宝前様は助けて下さったと分かり、涙が止まりませんでした。

それからも色々とありましたが、昭和三十二年、主人のお母さんも一緒に全員で神戸に引っ越してくることができました。そして間もなく現在の家に住むことができる様になりました。最初は土地の月賦や色々のことで暮しは苦しかったのですが、いつも御戒壇のことが気になっていました。一日も早く御宝前様のお住まいを何とか荘厳させていただきたいと思っておりました。そこで、生まれて初めて、内職をすることにしました。外に出て仕事をすることは無理でしたので、少ない収入でしたが、家でこつこつと仕事をしました。そんな姿を見て、そのころはもう、こ信者となっておりました主人の親が、「いいかげんにしたら」といいましたが、内職でいただくお金は御宝前の為のお金と、心に決めて、いっさい手を付けず頑張りました。そして、3年経ってやっと8万円のお金がたまりましたので、先住のお導師様のお世話で現在の御戒壇をお迎えすることができました。また、お道員類は奥様がいっさいお世話をしてくださいましたことが懐かしく思い出されます。

それでも、よく御法門で「御宝前に使わせて頂いたものはかならず帰ってくる」ということをお聞きしておりましたが、この後すぐにそれを体験いたしました。といいますのは次の年に、どこからこんなお金が来たのだろうと思えるほど、いつのまにか同じ8万円の貯金ができており、とても不思議な思いをいたしました。それ以来、財の功徳を積むということは本当に大切なことだといつも思っています。

同居しておりました主人の母の晩年は、今でいう寝たきり老人でした。でも、子供達が協力してくれまして、家で、精いっぱいの世話ができました。その臨終は全くあっけなく眠るが如くでした。看護の苦労は大変でしたが、子供達も小さいながらそれぞれに頑張ってくれました。そのおかげかどうか分かりませんが、今度は、今の私に、もったいないと思うほど子供達はよくしてくれます。

最後に、お祖師様の七百回御遠諱の時、役中二十年の表彰を頂きました。小さいときから自分は四十才までの命と、単なる占いの判断とはいえあきらめていましたこの体が、御法様のおはからいを頂いて二十年も余命を頂き、さらに、まがりなりにもお役にたたせていただけたことの喜びを実感いたしました。

ご静聴ありがとうございました。

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■12月のご利益体験談

「人生を振り返り、御法様のご加護を実感」

廣宣寺所属信徒: 二宮よう子
平成15年 婦人会御講(妙宝寺交流参詣)ご披露分

ありがとうございます。
この度、ご利益談をとお話がありまして、罪障の深い私が、どんな風にお話すれば良いのかと考えましたが、とんかく昨年大きな大きな御利益を頂きました事をお話させていただき、少しでもご弘通のお役に立てればと思いきって書かせていただきました。

私の両親は、とても熱心な仏立信者でございましたが、私が十三才の秋、大好きな父が亡くなりました。亡くなる1ヶ月程前から、死期がわかっているかのように、「私をあの世に連れて行く。この子は弱いからこの先、生きて苦労するより、今お父さんが連れて行った方が幸せだ。誰にも罪はかからないから」との事で、祖母が私をかくすのに困っていたようです。ちなみに私は医者から二十五才位いの寿命と云われておりました。

そんな私が、数々の御利益を頂きながら、この年まで生かせて頂いております。(昭和二年生れ)
昭和四十年に600cc輸血したことがもとで、C型肝炎になっていることが、平成四年にわかり、それ以来、週に三回の注射をずっと続け、半年ごとの検査をしておりました。そのおかげで昨年の三月、ガンが見つかり、即手術と云われ、頭がガーン、目はクラクラ、診察室のベッドに倒れてしまいました。

心臓弁膜症の持病がありましので、お酒や、タバコはもちろん、食事にも随分気を付けておりましたのに、ナゼ?、どうして?、という思いが先に立ち、帰宅してからも、じっとしていられす、副組長宅へ行き、一部始終をお話しし、今後の組長のご奉公もお願いし、東京の姉、責任教務様、お寺のご信者さんにも電話をしました。とにもかくにも、お寺へご参詣しなさいとのことで、一日おいて、朝参詣をさせていただき、さっそくお助行をしていただく事になりました。
今までの、人様のお助行とは違い、沢山の方々が、私の為に、一生懸命お助行をして下さっている姿に、涙が出て、お題目様が体の中にスーっと入ってくるような感じを受け、ブルブルふるえました。三日間で一先ず中止していただき、手術の時には是非お力をかして下さいとお願いしまして、四月二十六日に入院しました。

五月十四日の手術日まで、検査々々、手術の前日には、こんなに弱って手術にたえられるかと思う位い大変でした。と申しますのは、心臓弁膜症の持病があるうえ、大切な肝臓が人様より、三分の一小さく、酸素を吸う力がこれまた三分の一弱いのです。今迄よく生きてこられたものだと先生方が、おどろいておられました。
手術が終わり、集中治療室から普通病棟へ帰って着た時、主治医が婦長さんに、危険な状態にならないよう、指示をあたえておられるのを耳にしたその夜から、お題目を唱えながら、手術の前日おしえていただいた腹式呼吸を、痛みをこらえ一生懸命しました。

又、術後、首のあたりの血管に針をさしたまゝ、点滴を続けるのですが、長い人で1ヶ月位い、私は皮膚が弱く、感染症などをおこす可能性が高く、肺炎になりやすいからと、一週間ではずされ、これからは自分の体力で直しなさいとのことで、心配でしたが、麻酔科の先生が、あまりに快復が早いので、本当に宇都宮さん本人のデータかと確かめにこられる程でした。
主治医の先生も、私の体力・年令を考えると、良く頑張ったね……。と、つくづくおっしゃいました。
それも、これも、皆ご法様のおかげ、手術当日には、長時間(七時間)お道師様、お教務様、ご信者の皆様が、お助行をして下さいました。そのおかげをもって、命びろいさせて頂いたのです。新ためて御礼申し上げます。

母もあまり丈夫でなかったのに、毎日々々、お寺へと、そして家に帰ればすぐ横になる生活を見るにつけ、年頃になった私は、反発する気持をおさえることが出来ず、いろんな宗教に走った時期もありました。でも生れながらこのご法様の御加護と、両親の信心前で今日迄、こうして生きてこられました事を、この度新ためて認識し、有難い事だと、日々感謝の思いで、罪障消滅を祈願しております。

ありがとうございました。

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■11月のご利益体験談

「人を助けんと思ふ口唱が却って(かえって)我身の為となる」

廣宣寺所属教務: 池本良説

これから申し上げる体験談は、私が得度前の教務見習いの時に、人を助けようと思う口唱に励むことで、余慶の功徳によって自らの身にも「現証の御利益」を頂戴し、「菩薩行の素晴らしさ」を初めて感得させていただいたお話です。これを機に、私のご信心に対する決定心が確固たるものへと変わったのでありました。

まずはじめに、話は得度する以前の数年前までさかのぼりますが、私が一般のサラリーマンとして働いていたときのことです。新しく立ち上がった会社に勤務し、スタッフは私より更に若い人たちばかりの職場でした。しかし自分の職務は、会社の業務体制を確立しつつも、そのスタッフたちをトレーニングし、さらには日々の収益確保の為の日常業務もこなすという、会社の運営管理から現場の仕事まで全てこなさなければならないとても過酷なものでした。もちろん、会社を軌道に乗せるまでの間、こういった日々が続きますから、毎日ろくに睡眠も取れない状態が続きました。休日の土曜日も一人会社に出勤し、日曜日の朝だけは家でゆっくり寝ることができましたが、それでも自宅のパソコンで仕事をしていました。

そんな春のある日、私は突然花粉症にかかってしまったのです。それもたいへん重症なものでした。それまでは、花粉症などとは無縁の身で、幼少の頃からスポーツに励んでおり健康そのものでしたから、「そんな病気に自分がかかる訳がない」などと思っていました。ところが、日々重なる過労のせいか、花粉症で苦しむ身体へと変わってしまったのです。

それに加え、この花粉症が発症する少し前に、冬場に久々にジョギングを始めたときのことでした。冬場で肌が乾燥していたせいか、走るときにどうしてもこすれてしまう脇と股の部分がどんどん荒れてかゆくなり、掻いているうちにとうとうアトピー性皮膚炎に近い状態にまでひどくなってしまったのです。冬場などはお風呂で身体を洗い、最後に湯船に保湿剤を入れてそれにしばらく浸かり、上がった後はかゆみ止めのきつい薬を患部にぬって、ようやくなんとか日々過ごせる状態でした。夏場になると、身体が汗ばむと同時に患部がすぐにかゆくなり、冬場と同じように薬を使用していました。この塗り薬は、良く効く反面、あまり常用しすぎると内臓疾患をおこしてしまうようなきついものでした。やはりその塗り薬のせいで、からだの免疫力が衰えていたのでしょう。今思い返すとそれが原因で花粉症にかかってしまったような気がいたします。

私がお教務さんになるために出家得度すると決めて、廣宣寺に入寺させていただいたのは12月のことでした。冬場ですので、もちろん皮膚炎を抑えるためにそのきつい塗り薬は常用していました。そして年が明け、2月になるとやはり今度は花粉症が発症してきました。日々の御宝前のお給仕中のフクメンの下は、もういつも鼻水でいっぱいで、とても人前で取れる状態ではなかったのを覚えています。実際にこれらの病気にかかっている方々はよくお分かりになるでしょうが、花粉症はたいていの場合、病院へ行っても抗生物質を飲んで発症を抑える程度の治療しかすすめられませんし、突然完治するといったことはなかなかありえません。アトピーに関しても同様で、この二つの病気は発症した本人にしかわからない、その苦しさと長年にわたって付き合わなければならない慢性の疾患なのです。

ただ、ふと考えてみると、教務を目指す身である以上、これは信心決定させていただくにはちょうど良い機会だとも思ったのです。「よし、この病気を治して頂いて、『現証の御利益』というものを実際に自分が経験すれば、自分のご信心が疑いのないものになり、間違いなく教務として生涯通じてご奉公させていただけるだろう」との思いから、これを機会に自ら御祈願を上げ、御題目口唱と御供水による功力で御利益をいただこうとお看経に励むことに決めたのでした。

そう心に決めた日から2、3日たったある日、当山の青年会に所属する若者が車で大事故を起こし、命に関わる状態であるとのことで、事故当日の手術無事終了のお助行はもちろんのこと、その日から一週間の詰助行が夜間に始まりました。時を同じくして、婦人会に所属するご信者さんが、心臓疾患の手術をされ、同様の詰助行が始まったのでした。このとき私は、「自分の御祈願など取るに足らない。ここは一旦自分の願い事は忘れて、この二人の為に一生懸命お看経を上げさせていただくことにしよう」と決め、自分の口唱を全て人助けの為にささげることにしたのです。
 
一週間のお助行も終わり、二人のご信者も無事に回復へ向かうようになり、ようやくホッと一息つくことができたました。そして「さあ、次は自分の御祈願の番だ。絶対に現証の御利益をいただいてみせるぞ!」と意気込みも新たに口唱に励もうと思ったその時でした。気がついてみると、つい一週間前まで苦しんでいた花粉症と皮膚炎の症状が、なんとピタッと止まっていたのです。くしゃみや鼻水も止まっていれば、あれだけ常用していた塗り薬もまったく使わずに済んでいたのです。この現実には自分自身本当に驚くばかりでした。

そんな時、これまで自分が聴聞させていただいてきた御導師や兄弟子のご法門をふと思い出し、「そう言えば、何度も御法門で『人を助けようと口唱に励むことで、気づかぬうちに自分の願い事も叶う』といった内容のことをおっしゃっていたなあ…」と、それからすぐに御教歌や御指南をいろいろと調べました。するとやはり

「おのが身をいのらんとせば人をまた 助けんとする信者なりけり」

の御教歌や、

「人を助けんと思ふ口唱が却って(かえって)我身の為となる也」

といった御指南などの、「菩薩行」をあらわす開導聖人お言葉が数多く見つかりました。

それからというものの、自らの個人的な諸祈願はこころの奥底にしまい、ただ「御弘通一筋」の思いでお看経を上げさせていただけるようになりました。なぜなら、私は今申し上げた経験のお陰で、人を助けようと思うひとつの口唱で、自らの願いごともかなってしまうという「菩薩行の素晴らしさ」「御題目の経力の尊さ」を知ってしまったのですから。普段から御弘通のため、人助けのために口唱に励んでさえいれば、自らの所願がいつのまにやら成就するのはもちろんのこと、日々の生活の中でもふとした時に思いも寄らぬ御宝前からのお計らいが頂戴でき、人生そのものが好転していくのだと実感させていただきました。

私事の願いごとなど、御宝前はすべてお見通しで、我々が欲深い生き物だということも十分お分かりなはずです。ですから、そんな欲深いわれわれ凡夫が、貪欲をむき出しにして自分の所願を優先するのではなく、御弘通のため、人助けの為に一生懸命になる姿を仏様はお喜びになられ、そういった「菩薩行」に励むことでわれわれに御利益を頂戴させてくださるのでしょう。

この時の出来事は、御法門の教えどおりに信行に励むことで現証の御利益を頂戴し、あらためてご信心のありがたさ、すばらしさを感得させていただいたとても素晴らしい体験でございました。この時、私の御法様を想う心はより一層澄み渡り、ご信心に対する思いが確信へと変わった瞬間でした。おそらく、仏様が私に「教務になる身であるあなたが、この喜びを、この教えの素晴らしさをたくさんの人々にこれから伝えていくのですよ」とお教えくださったような気がいたします。これからも、一教務として信行・ご奉公に精進し、その中でさらにたくさんの現証を目の当たりにし、皆様にお伝えしていければ幸いだと思っております。

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■10月のご利益体験談

「いつも見守っていてくださる御宝前様に感謝」

廣宣寺所属信徒: 高木照子(40代女性)
平成17年「大放光」掲載分

ありがとうございます。
わたしは、小学校6年生のときに母に連れられて、お餅つき大会に参加したのがきっかけで、御参詣するようになりました。中学校ではジュニア・リーダー、高校からは青年会としてご奉公させていただきました。

19歳のときにアルバイト先で知り合った主人とは、3年交際し結婚しました。付き合っている時から御信心の事は、よく話していましたので、主人も「とりあえず名前だけなら……」と入信してくれました。主人の実家は徳島で、小さなスーパーのようなお店をしながら、和菓子職人の舅は、注文を受けたら和菓子を作る仕事をしていました。私たち二人は、結婚しても2年間は神戸でパンと洋菓子の修行をして、その後は実家の徳島で店の一部を改装して、パン屋をするのが約束でした。親子で和洋菓子の店にするつもりでいたのです。私にはご宝前様が付いていてくださるのだから大丈夫と思っていました。

1年目には長女が生まれ、楽しい2年間はアッという間でした。徳島へ帰る頃には長男がお腹にいました。結婚して2年目の5月、徳島へ帰る時フェリー乗り場まで、父と母、そして良伴師と奥様が船の中で食べるお菓子を持って見送りに来ていただきました。見送りに来てくれた皆が、小さく見えなくなるまで甲板で手を振っていました。フェリーの中では、泣きながらお菓子をいただきました。この時の寂しさは今でも忘れる事ができません。

徳島での生活は、私が思っていた程簡単に慣れる事はできませんでした。当時はまだ車の免許も持ってなく、どこに行くのも車しか手段がない田舎では、私はどこにもいけませんでした。公園もないし、若い人達も少なく友達はできないし、退屈な毎日でした。そんな中、10月には長男を神戸の私の実家で出産しました。そして12月の初めに徳島に戻ったのですが、私が出産で実家に帰っている間に、私たちの部屋のご宝前に気が付いたらしく、舅が姑にいろいろ聞いていたようです。結婚の時に母がご信心の事は姑に頼んでくれて、解ってくれているとばかり思っていたのですが、姑は反対すると思って舅には話してなかったのです。その頃から、ことある度に「あんなの祭っているから家の中がうまい事いかない」と言われるようになりました。そんな時は悔しくて「神戸に帰らせて下さい」とお看経したものです。

主人はまだ若すぎて対処できず、いつも一人で工場にこもっていました。ささいな喧嘩を姑とたくさんしました。その度、舅は姑のかたをもちます。主人は弱いし、とうとう私の中の糸がきれたのです。今まで我慢してきたこと全部舅と姑に話しました。「出て行け!」といわれ、「出て行きます!」と答えていました。次の日、神戸から私の父と母が呼び出され親族会議です。おじさんや、おばさんが来ていろいろ言いあいした結果、母が、「この子は、今精神的にまいっているから連れて帰ります」とはっきり言ってくれたのです。その時は、ほんと、うれしかったです。私の中でもう徳島へ帰ることはないと決心していました。

それからは姑や主人が帰ってくるように、何度も説得に来ました。離婚覚悟でいたのですが、主人は神戸に出てくる決心をしてくれました。主人もプライドがあったのでしょう。ご信心を捨てること。子供の面倒を私の両親に見させない事、と条件をつけました。主人がご信心を捨てる事は勝手だけど、私はご信心を捨てる事はできないとはっきり言いました。子供を両親に見させないことに関しては、なんとでもなると思い承知しました。そうして神戸での親子4人での暮らしが始まったのです。

しばらくは、主人も暗くて様子がおかしく、やっぱり無理なのかと心配したのですが、少しずつもとの明るい主人に戻ってきました。緒局、私がパートに行っている間、母が子供を預かってくれました。忙しいけれど楽しい毎日でした。子供たちも、どんどん大きくなって、私も歳をとっていく間に、少しずつ主人の両親にかわいそうな事をしたと思うようになりました。私も若くて生意気だったと思います。私のわがままで主人にも寂しい思いさせました。私が辛抱できなかった為に、主人の両親や主人の夢を壊してしまった事、いろいろ反省し、主人の両親に手紙を書いて謝りました。ゆるしてもらえるとは思いませんが、とにかく謝りたかったのです。姑は姑で、次男夫婦が、同じ敷地内で家を建てて暮らすようになり、次男のお嫁さんを見ていて私の事を、かわいそうな事をしたと思ってくれるようになったみたいです。その後、姑から電話が掛かってくるようになり、田舎の野菜やお米を送ってくれるようになりました。初めは主人が、子供の顔を見せに連れて行っていたのですが、「照子ちゃんも一緒においで」と言ってくれるようになり、最近では私がご信心しているから子供達もいい子に育ってくれたと言って喜んでくれています。あんなに深い溝を作って別れたのに、普通に嫁と姑として付き合えるようになりました。

そして阪神大震災が起こったのは、神戸で生活して7年後の事でした。主人は仕事に出掛ける5分程前で、テレビを見ていました。すごい揺れに怖くて、私は布団の中で身を縮めました。長女は私にしがみついて寝ていました。長男は母の家で泊まって、いませんでした。揺れている間、主人が私と長女の上に覆いかぶさってくれていました。揺れが止まってあたりを見てみると、私の頭のすぐ上には何10キロもある大きなオルガンが倒れていました。怖くて身を縮めたので助かったのです。長女の横には重たいタンスが落ち、主人が寝ていた場所には、大きなテレビが転がっていました。もしいつものように長男が家で寝ていたら、長男が私の横で寝るので、長女がタンスの下敷きになっていたでしょう。

すべてが不思議な力で守られ、みんな擦り傷ひとつありませんでした。その次の日だったと思います。お講師がお供水とポリタンクを届けてくださったのです。自分の家も大変な時に、信者の家を心配して回っていただき、とても感謝いたしました。その頃から主人のご信心に対する気持ちが変わってきたようです。

子供達が大きくなり、家が手狭になった為、震災の次の年に家を引っ越す事になったのですが、「引っ越すなら毎日ご参詣できるお寺の近くにしないか?」と言い出したのは主人でした。しかも入るはずがない西宮の広告、それもおてらの目と鼻の先のマンションの広告がポストに入っていたのです。早速見に行って決断するまでに、そんなに日にちは掛かりませんでした。平成8年の12月に引越しして、今まで主人は、ほぼ毎日仕事の帰りにお寺にご挨拶に寄ってかえってきます。たまに行けない日に、いやな事があったら「ああ、今日はお寺いってないからなあ」とため息ついています。

3年程前にリストラになった時には、短いお線香ですが主人は1目15本のお看経をしました。私が仕事から帰って5本させていただきました。一番就職の厳しい時期だったので必死におすがりいたしました。子供達も一緒に皆でお看経しました。そして本当なら採用は無理な会社に就職が決まったのです。それも、36歳までの人しか採用した事がない会杜で、主人は40歳すぎていましたので、会長は頭から採用する気はなく、面接もしてもらえませんでした。しかし社長がどうしても主人の履歴書が気になって送り返せず、社長の判断で社長が面接して会長を説得し採用してくれたのです。ここでも不思議な力で助けていただきました。

御宝前様には、いままでたくさんのご利益をいただき、いつも見守っていただいている事を実感し、愛情深くいつも支えてくれる両親や妹、楽しくて明るい家族、それにお講師方やはちす会の仲間達に励まされ、そんな中で私はとても幸せです。子供達とも食事の時等に、よくご利益やご信心の話をするようになりました。私が困っている時は一緒にお看経してくれます。子供達がこの先、結婚してもご信心を忘れる事無く、孫も一緒にご参詣できるようになれる事がこれからの私の御祈願です。
ありがとうございます。

合掌

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■8月のご利益体験談

「交通事故のお計いが、今の私の支え」

廣宣寺所属信徒: 太田澄子(70代女性)
廣宣寺報 昭和60年3月号掲載分

有難うございます。
私の生まれました時には両親はすでに信者でございましたので物心のついたころから朝晩の無始己来は一日の生活の一部でございました。時々は親の後に座ってお看経もしておりました。子供のころお会式とかご修行日に親に連れられて御参詣をさせて頂きました事を今でもよく覚えております。

社会人になりましてからはご信心の事を忘れておりました。また家庭人になりますと色々と悩み事も多くいっそ死んでしまいたいと思うような事もございました。

そんな時ふだん無信心な私ですのに不思議とお寺を思い出すのです。ご参詣をさせて頂こう。何にかおすがりする様な気持になるのです。そして朝参詣をさせて頂いております中に、ふとした事から気持が楽になるような事がありまして、ご利益を頂いたと大へん嬉しく思った事を覚えております。

その後また無信心な私でございました。四十五年に交通事故にあいまして足を骨折いたしました。それも、ひどい複雑骨折で、私には内緒でしたが身内の者には医者から「99%膝の下から切断する事になるかも解りません」と言われていたそうです。
九ケ月の長い入院生活でございました。その間の手術待ちの時に無信心な私がお寺に参詣をさせて頂こうと思う気持になりました。でも歩けませんのでタクシーを一週間予約いたしまして大阪の病院から朝参詣をさせて頂きました。その後自分の骨盤を削って骨移植を致しました。お蔭様で働くのには不自由の無い足にして頂きました。これも一重にご法様のお計いとよろこんでおります。

勝手な時だけお寺を思い出す様な私ですがこれも子供のころお寺参詣につれて行ってくれました親のお蔭だと感謝いたしております。私は杖をついて退院いたしました。その三ケ月あとに母親は老衰のため八十三歳で子供達に見とられながら眠るがごとく安らかに息を引きとりました。

そのお葬式の日に私の使っておりました杖はとれましたのです。

その後、私も改良させて頂きまして事故にあうまでの勤務時間は昼11時から夜の11時まででしたが、退院後は夕方の4時出勤にしてもらいました。勤め先は、大阪のお寿し屋です。夜の御参詣は出来ませんが、お講参詣また組内の巡回助行には班長さんの小林さんとコンビで励ましていただいております。小さなお組ですが班長の役のあと現在、組長のお役を頂いております。これからも御信心を心の支として働きながら出来る限りの御奉公に精進いたしたいと思っております。

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